2024.01.06 UPDATE
TALK SPOT 105
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フクモリ シン

伝えるということ

 

福祉の現場では、相手のニーズがあってはじめて支援計画が始まる。相手のニーズが理解されていないと、あるいは誤解されていると支援内容は大きく異なってくる。ニーズは一般的に顕在的なものと潜在的なものがある。大袈裟な言い方かもしれないが、人生は、顕在ニーズを満たしながら潜在ニーズに向かう本質的な課題解決を繰り返しているのである。例えば、顕在的なお金やモノを手に入れる願望を満たしても得られない安心や幸せ感などは潜在的なものだと言えよう。

しかし、文字通り潜在ニーズだから、本人に明確に自覚がないにもかかわらず見えない何かしらの欲求がある状態である。もやもやとした不満足であるが、確かに存在している根本的な人間的な願望部分である。普段は本人も意識していないため、潜在ニーズを第三者が理解するのはそもそも難しい。当然、本人のニーズの聞き取りを機械的(デジタル的)に行っても、本質に近づくことができるはずがない。そこで、支援者自身が洞察力を高めることが対人援助の仕事ではとても重要な要素になる。洞察力、“感じる力”とでも言い換えられるだろうか。洞察力とは、周囲を深く観察したうえで、目に見えない部分まで推察し、問題の本質や発言の裏にある意図を見抜く力である。例えば、ある利用者が、最近不機嫌で落ち着きがない。「雑誌を買って欲しい。買い物に行きたい。頭が痛い・・・」など仕切りに訴えてくる。要望に応えるように雑誌を買い、頭痛薬を飲ませて対応するが、今度は「おもちゃが欲しい。お腹が痛い・・・」と言う。問題の本質を捉え「久しく会っていない家族と連絡を取って安心感を得ること」によって落ち着きを取り戻したりすることが多々ある。本当のニーズを知るためには経験と洞察力が必要だ。「雑誌が欲しい」という顕在的なニーズを満たしても洞察力がなければ「愛情欲求」という潜在ニーズにたどり着けない。洞察力を高めることが、根本的な課題を発見できることにつながるのである。その為には、まず「観察―現状を正しく把握すること」である。そして、「疑問―なぜその活動や行動は必要なのか」さらに「考察―その行動は一般的か特別か」ということを推察し、多角的な視点で物事の本質を考える習慣をチームで共有することが求められるのである。つまり、結論ありきで結論から行動を考えるのではなく、「なぜ、こういうことをしなければならないのか?」という根拠から結論の整合性を導き出すことで、現状打破のアイディアが生まれやすいのである。

さて、この見えない潜在的な願望の実現について、可視・効率・情報化、生産性などの著しい向上に貢献しているデジタル社会の進化と同時に、デジタルが不得意とする感覚や感情の交流と洞察力、そしてダイレクトなコミュニケーション能力の低下という問題点を重ね合わせて考えなければならない。

急速なデジタル化に伴い、現代の子供たちの時間の使い方の主流は、外遊びではなくコンピューターゲームやソーシャルメディア(SNS)である。いろんな人と情報を交換し、私たち大人も知らないことを知っている。また、地理的、物理的、時間的制限を超えてインターナショナルに人と繋がることができるなど、今までの世代とは違う利点もある。その一方、近隣の人との交流は限られフェイスツーフェイスの関わりが極端に減少している。すでに子供に限ったことではないが、メールは特に感情が伝わらない。言葉、表情、声のトーンなどダイレクトな「印象」というものを感じ取る能力が低下しているという。松本民藝家具の創設者 池田三四郎氏は「印象を掴む能力は子供達が最も鋭い。大人になればなるほど知識や情報を獲得するが故、印象を掴むのが鈍くなる」と30年以上前の民藝誌に記している。現代の子供たちはすでに「印象」よりも先に情報が氾濫しているので自分の感覚でものを言うことや、人の感情を理解して、考え方を交錯させることが絶対的に少なくなっている。顕在的な口論や喧嘩はいけないことだと知っているからやらないが、潜在的な恨みや怒りはどこかにしまっているのではないだろうか。物言わぬデジタルという相手に向かって、笑い、話しかける姿は、私にはやはり滑稽に見えるが、まだましだ。一部のSNSでは、顔の見えない相手にしか相談できない人の投稿が絶えない。「どうにかしてほしい」「疲れた。もうだめだー」相手が居るようで居ない空間で、ようやく本当の気持ちを吐き出すが答えは返ってこない。そこに相手がいないからだ。

話を少し戻そう。職場でのデジタル化も遅ればせながら進んできた。新型コロナウイルスの感染拡大を機に、オンライン研修やズーム打ち合わせなど私たちも一気に導入せざるを得なかったのだが、今までにない効率性と正確性が必然として向上したと言えるだろう。同時に、デジタル化による考え方の誤解や感じ方の相違によって生じるコンフリクトを解決しながら、あるいは感情をスルーしながらクールに仕事を進める必要性も意味する。

私たちの仕事は、対人援助という感情労働である。大事なことは一言で言うと「気持ちの理解」であり、憶測や、想像、印象などを感じとる能力が求められる。保育、教育から看護、介護などの実践研究の一つとして「エピソード記述」という手法がある。これは対人援助の基礎となる潜在ニーズに近づき、読み取り、伝え、そして援助につなげることが求められる。もっとも、相手の感情を読み取るということは容易なことではない。デジタル的に「こういう質問に対してこう答えた」からと言って処理することはとても危険であり、嘘発見器にかけたようにデータで処理しても潜在意識は測れるものではない。過剰なデジタル化が人間性の喪失につながることを危惧しているのである。「エピソード記述」は、直接的な交流や面接を通して、「どのような気持ちで」(感情)を読み解くところが重要なのである。“言葉に表せない気持ち”とでも言えようか、相手が言葉にしていない思いなどについて、語り口、身振り、表情、緊張などから相手の感情が聞き手の感性にどう写ったかを記述し、主観も含めてメタ考察し伝え、言語化することでより相手に近づこうとするのである。

職場コミュニケーションのデジタル促進は、仕事の効率化や正確性、データとしての記録の保存など物理的事実に則した仕事の質は言うまでもなく向上につながるもので推進する余地が十分にあるのが現状だ。しかし、デジタル化が進みすぎると対人援助が主な職場においては、特に職員同士の相槌的であうんの呼吸というような感情交換が成り立たなくなる。

子供達のデジタル化社会を悲観している場合ではない。私たちも同じなのだ。デジタルと共存している限りIT(コンピューターベースの情報技術)は重要なツールであり、なくてはならないものである。人間にできないことはテクノロジーが進化させる。すでにAI(人工知能)の進化により、囲碁のプロ棋士がAIと対戦して負けたり、人間のような感情を持ち、柔軟な判断ができる人工知能が人間の知能を超える転換点が来るとか来ないとか、予測がつかない大きな革命的事象をもたらすとも言われている。知性は人間の感覚的な部分であることから、人間の脳は人工知能とは異なると論じながらもこのようなデジタル時代が加速すると同時に人間が失ってしまう能力もある。自動運転になれば注意力が低下し、問題解決のためにコンピューターが答え、欲しいものは購入すればいいので自分で作ることをしない。人間にしかできないことをもっと考えていかなければならいだろう。デジタル化が進めば進むほど、喜怒哀楽、様々な感情がある私たちのような仕事の貴重性を自覚するとともに、デジタル化と共存するために職員同士のコミュニケーションを高め、おしゃべりや対話の機会を大事にする意識を持たなければならない。それぞれの職員がアナログ的で答えが割り切れない出来事や人の気持ちに寄り添っていることにプライドを持てれば、仕事の効率や生産性が低くても、良い職場を作っていく手立てはさまざまなところにあると思う。

伝えるということは難しい。デジタルだからできることとアナログだからできることがある。贈り物を梱包し発送する業務がある。最近オンラインショップからの発送が増えた。学園の商品の多くは一点物だ。段ボールにプリントされた住所シールを貼り運送業者に送り状を渡すのだが、愛おしい作品を発送するとき、手書き文字でつい一筆添えたくなる。「いつもありがとうございます。」コミュニケーションは「伝える」から始まる。