2023.10.08 UPDATE
TALK SPOT 104
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フクモリ シン

小鳥のピーコが見えない

自宅のお風呂の湯船から見えるベランダの軒下に、毎夕になるとヒヨドリのような鳥が止まっている。どうやら住み着いているようだ。鳥目というのは暗いところで目が見えにくくなるのだから、夕方帰って来て朝明るくなる頃に飛び立っているようだ。夜、お風呂に入ると気になって薄暗い軒下を覗き込むと、うっすらと色はわからないがシルエットが見える。見えにくいところに止まっていると目を凝らして見なければわかりにくい。水の音や物音にも慣れてきたのかあまり動かない。人の気配が近づくと移動はするが軒下にとどまっている。「今日もピーコはいるかな」と年甲斐もなく確認する習慣がついた。ピーコを見つけるときはいつも薄暗くて、簡単には見つからない。目線の使い方にコツがあるということに気がついた。止まっているところをピンポイントでみると存在が確認しにくい。逆にじっと凝視せず、目的のピーコから少し目をずらして横目で見るとシルエットが見えてくる。そこで、錯覚かと思い目の働きについて調べてみた。

網膜の視細胞には「桿体(かんたい)」と「錐体(すいたい)」の2種類があり、桿体細胞のほうが暗い光に対しても感度が高いのだが、色は区別できない。錐体細胞は色を感じることが出来るが、感度は低い。この2種類が補い合って働くわけだが、人間の場合、視野の中央部には錐体が多く分布し、周辺にいくほど桿体のほうが多く分布している。そのため、暗い星や天の川を見るときは、視野の中央で凝視するよりちょっと外して見る方が、感度の高い桿体細胞で光を捉えて見えやすくなるという。つまり、錐体細胞は、明るい場所で色を認識することができるが、“暗い所”ではその働きが低下してしまうらしい。逆に、桿体細胞は色を区別できにくいが、わずかな光でも感知できるため、“暗い所”で主に働いているそうだ。

私たちのライフワークにおける物事の見え方について考えてみた。物事は、その存在意味が異なれば、事象や物質が同じに見えても個人の感覚記憶や経験によりその存在価値は大きく異なる。大切な人からの心のこもった贈り物に例えてみよう。景品でもらった物と同じ物であっても、その存在価値は全く違う物として捉えられる。また、長年使い続けてきた愛用品は、傷んでいても捨てられないほど美しく見える。心に沁みた思い出の場所は、その景観とは関係なく忘れ難い良い風景として写っている。物質は目に見えるが、心は目に見えない。その人にとっての真実は、目には見えないその人の心の中にあるのだ。あらゆる物や人間の存在は、周りや他者があって存在するのだと。言い換えれば、桿体細胞でしか見えないような“暗い所”では、周りの関係性を知らなければ、そのものの形は正しく見えないと考えることもできよう。私が思う“暗い所”というのは、単にネガティブに通じるのではなく、本質が見えにくい現実的な世の中のことを意味している。そこには、戦争やコロナ禍でのプロパガンダやフェイクニュースに影響された現代社会における政治や経済とイデオロギー、そして、人間関係、愛や信頼、利益や名誉(欲)などが複雑に入り混じって、物事の真実がわからない世界(暗い所=見えにくい所)に私たちは生きている。単体では何事も成立せず周りの様々な要素が絡み合って、おかげ様で自分が存在しているということだ。つまり、真実を見るということはできないという結論ではあるが、見たいものから視線を外すと見えないものを見つけることができることもあるということかもしれない。桿体細胞を働かせて見えない世界を見るような生き方には、不安よりもむしろ純粋で自然な物事を探しているような期待や創造もある。

ピーコの話からこんなところまで迷走してしまった。言いたいことは、“木を見て森を見ず”というように、一つひとつの小さな物事にこだわって視野が小さくなり、物事の本質を見失うことが多くなってしまいがちだということだ。しかし、見方を変えれば木を見すぎる人は、真面目で繊細できめ細かな配慮ができる気づく人でもある。対人援助や看護、介護の仕事においては、相手の立場に立てるできる人である。だから、一概に森を見ることへ転換するべきということでもないし、簡単なことでもない。大事なことは、木を見て問題や不安に気づいた時、そこに手を入れる前に森全体のシルエットを見ることが必要なのだ。森は、自分が感じているどうしようもないストレスや憤りから抜け出しやすくしてくれる。マイナスもあってプラスもある。老木や災害によって倒れた木ばかりに視線を当てず、実は森は確実に成長しているんだと気づくことも大事だと自分に言い聞かせている、今日この頃である。