2023.07.24 UPDATE
TALK SPOT 103
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フクモリ シン

「ワカラナイ」のカタチ

久しぶりに顔を合わせた利用者である彼は、挨拶もつっけんどんで、私が手を振れば、軽く手をあげて目はあまり合わせない。右手に園庭の雑草を手にして、職員と散歩をしているようだ。ロバ小屋の近くに行って雑草を小屋に投げ入れてニコニコしている。でも、ロバ小屋にはロバはいない。いつもはロバとヤギが飼われている場所だが昼間は運動場に移動している。雑草をちぎってロバ小屋に投げ込むという一連の行為は、ロバに餌をやるということではなく、ロバ小屋に雑草を投げ込むということのようだ。誰かが教えた餌やりが変換されて、彼の散歩でのルーティーンの一つになったようだ。彼にとってそれは草でも餌でもなんでもいいのかもしれないが、普通、ロバのいないロバ小屋に草を投げ込むという行動は理解し難い。私が、それは餌?と聞くと餌という。それは草?と聞くと草という。むしろ、“そうなのか“と、行動の根拠は説明できないが実に彼らしい答えが返ってくる。ロバに餌をやる人と聞いても特定できないが、ロバのいない小屋に草を投げ込む人と聞けば、彼だと分かる。

もうひとつの象徴的な出来事がある。毎日決まって同じ道を通って作業場から寮に戻る人がいる。雨が降ると、その道を辿ると遠回りになるので服が濡れてしまう。普通なら濡れていてはかわいそうだ。本人にとってもっといい方法がある。近道を教えたほうがいい。それが職員としての務めだし、優しさの表れだと考えるだろう。それを常識とするならば、私の考えとは違う。彼はその道を通りたいのだ。雨に濡れてまでもそこを通ることが本人にとって必要なことだと考えているのではないかと思う。そうであるならば、職員は彼の行動の変化を促すのではなく、同じ道を毎日行けるように手伝えば本人は嬉しいはずだ。雨に濡れることが問題なら傘をさして一緒に歩けばいい。

ロバのいないロバ小屋に草を投げ込んだり、雨が降っても濡れながら遠回りする光景は、普通は「おかしいよね」という話になる。でも、彼らのことを知っている私にとっては、おかしくないどころか、むしろ正直すぎて美しくもある。誰にも不利益をもたらさないのであれば、本来なら彼らの行為のほとんどに肯定的になれるはずだ。少なくとも本人が望むこととこちらが支援しようとすることは一致していたほうがいいに決まっている。しかし、彼らと私との関係は当然、本質的には交わることはない。調和の距離というものは難しい。ただ、肝心なことはお互いが思う「ワカッテホシイ」という気持ち。何を共有できるのか。「ワカラナイ」けれど平行線のままで近くに居ることが、唯一お互い認め合える良い関係であることかもしれない。その人らしさを支援するためには、私たちの方から彼の価値基準に近づくこと。そして、平行線のままでもその平行線の距離を詰めていくことから始めなければならない。

作家である尹雄大氏は、しょうぶ学園についてこのような感想を述べている。「彼らは、地上の言葉に価値を見出さず、宙の空間の何かに触れて生きている。ただ、生存上、健常者のケアに頼らざるを得ない状況があるので、健常者に合わせて、僕らの理解できる身振りをしている可能性もあるかもしれない。そんなことを感じた。僕らが生きているこの空間には、行為以前の未だ名付けられない何かが満ち満ちているのに、地上の言葉遣いに慣れた僕らには、それがなかなか見えない。」と。

普通とは、予想や期待に沿うことであるならば、逆に予想や期待を遥かに超えるか、裏切るという異質でイレギュラーな表現は、芸術的とでも言えるだろうか。彼らにとっては、逆さまも問題なし。私たちにとっては問題なのだと思う。

福祉の仕事はその人の思いを分かち合う仕事。私の思い通りではないと言い聞かせてくれている。効率や利益より「ワカラナイ」同じルーティンの継続に安心や心地よさを感じる人。それで心の落ち着きを得る人。彼らの“僕はいつも裸だよ”という信念に影響を受けながら、異質であることを重んじるしょうぶ学園のカタチとして反映されている景色だった。

著書「ありのままがあるところ」福森伸(晶文社) より一部引用