2022.12.15 UPDATE
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フクモリ シン

「言葉にできない感情」を受け取る

しょうぶ学園のキャンパスデザインや家具製作プロジェクトなどの他、個人的にも親交の深い屋久島在住のウイリアムブラワー氏と知り合ってからもう28年にもなる。彼はアメリカ・ウイスコンシン州出身の木工家だ。妻の出産を機に屋久島に移り住んだ。仕事をするにもまずは、日本の運転免許証を取らなければならず、運転免許試験場のある鹿児島本土にしばらく滞在する必要があった。屋久島に移り住んだばかりの彼は、地理的にも社会システムについても何も知らない。知り合いを見つけようとしていた矢先、鹿児島のローカルテレビの特集で「鹿児島の6人の木工家」というテレビ番組で取材を受けたことがきっかけで知り合うことになった。彼はもちろん30年以上も前からアメリカで車に乗っていたから、当然試験には一発で通ると思っていた。私の自宅に一泊して片言の英語でいろいろ話して楽しい夜を過ごした。翌朝。また会える日を楽しみに挨拶して彼は試験場に向かった。しかし、その日の夕方私が仕事から帰ると、彼は庭の椅子に座って本を読んでいる。試験に落ちて帰ってきたのだ。「日本の運転免許の試験は難し過ぎるし、馬鹿げている。一旦停止では何度も首を降らなければならないし、ハンドルの握り方まで不自然な構えを要求される。シートベルトの締め忘れだけで落とされるなんて。」とボヤいていた。次の日の朝も、挨拶を交わし別れるがまた帰ってくる。一週間くらい不合格を繰り返し、おかげでとても仲が良くなった。

10年以上も付き合っていると、片言の英語と片言の日本語でも仕事上の関係性においては、デザインのことなら図に書けば解るし、作り方はして見せれば一目瞭然理解できる。建築設計は、大きなプロジェクトでさえ、通訳なしでほぼ筆談的であっても会話になる。しかし、身の上話や考え方になるとやはり言葉の問題は大きい。ある日、私とウイリアムが親しげに話しているのを見た私の友人に「君は英語が話せるんだね」と言われ、「いや、20パーセントくらいだよ」と答えたところ、ウイリアムは「違う、2パーセントだよ」と笑いながら茶々を入れる。(そもそも彼の日本語も2パーセントなのだが)なるほど、英語を20パーセントも話せたら会話的にはほぼぺらぺらの域かもしれない。表情や声のトーンで相手の気持ちを想像して、2パーセントの言語で28年も付き合ってきたのかと思うと不思議な気さえしてくる。近代のデジタル社会は、コミュニケーションの手段が大きく変わってきた。自動翻訳なども使ってみたがお互い不得手で時間がかかる。ましてや誤翻訳によって翻弄されて考えが伝わらないこともしばしば起こる。メールもいつでもどこでも使える時代。証拠記録としては便利であるが声のトーンや表情は伺うことができない。本当の感情がわからない。手紙にしても感情が伝わるような昔の言い回しも少なくなったし、要件だけ要領よく伝える傾向が強くなっている。メールは、聴覚と視覚情報がえられないから気持ちのすれ違いという誤解が生じやすいから好きではない。

コミュニケーションに関連して「メラビアンの法則」という言葉を知っているだろうか。「メラビアンの法則」はカリフォルニア大学ロサンゼルス校の心理学者であるアルバート・メラビアンが1971年に提唱。言葉に対して感情や態度が矛盾していた際、人はそれをどう受け止めるのかという、人に与える影響度の度合いについて実験をした結果、
言葉の内容や意味としての「言語情報(Verbal)」は7%
声質、声量、口調、テンポなどの「聴覚情報(Vocal)」は38%
見た目や仕草、表情、視線による「視覚情報(Visual)」は55%
というメラビアンが導き出したのが「7-38-55のルール」とも呼ばれる「3Vの法則」である。感情を伝えるコミュニケーションおいて、相手に大きな印象や影響を与える情報は、言語(文章)より聴覚、視覚情報という直接的に五感に訴える手段が大切であると結論づけられている。7%の言語情報を補い正しく状況を伝えるためには聴覚情報と視覚情報がとても重要であるのだが、言語情報に頼りすぎている現代は、感情を伝えるコミュニケーション力が著しく低下していると言える。特に、面と向かって(face to face)話すこと、つまり、言語よりその人のことをわかる要素は、非言語的コミュニケーションの重要性を示している。もちろん、文筆作家たちは装飾された美しい言葉によってより情景を深く表現できたり、感情の内側を巧みに、時にグロテスクに、そして繊細な言語だけによる表現は創造的であり、人に影響を与える文芸として存在する。しかし、言語そのものでも心に響く手紙などは最近めっぽう少なくなった。言語情報は、事実を正確に伝えるためにも感情を抜きに、いつ、誰が、どこで、何を、なぜ、どのように(5W1H)という伝達の具体的な基礎をなすものでもあろう。私とウイリアムのように2パーセントしか言語情報はなくても聴覚、視覚などの感覚によって分かり合えるのは、ありきたりの言葉だが「心のつながり」なのだろうか?

しょうぶ学園では、言葉の話せない人や極端に語彙の少ない利用者と日々を送っている。言葉を発しない、文字が読めない利用者は多く、顔の表情や声のトーン、目の輝きや歩き方などで自分のことを伝えてくる。私たちにとって最も大切な非言語的コミュニケーションである。肌で感じようとしていれば、どんな感情であるのか十分に伝わってくる。同時に私の感情も読み取られているのだが。

いつものように、昼休みに中庭のベンチに座っていると利用者のリエさんが横に座って、
「元気?」と聞いてくる。「うん、元気だよ」と答える。
「どこからきたの?」〜「あっちのほうから」
「あっちからね、気をつけてね、元気だしてね」〜「うん、ありがとう」
それだけで、今日は調子が良い、今日は機嫌が悪いが分かり合える。そんな会話を何年も繰り返す日々。数少ない語彙でも、言語情報がなくても人間関係は創られている。長年付き合ってきて、わかったことは言語的コミュニケーションでは嘘は簡単だが、非語的コミュニケーションは嘘をつきにくいということだ。感情を伝える非言語的コミュニケーションにおいては、文字や言語や知的情報の影響を受けない感覚的な聴覚、視覚による繋がりが強く、まさに「言葉にできない感情」という真実がある。