2022.10.04 UPDATE
TALK SPOT 99
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フクモリ シン

両手を180度まで広げてみる

コロナのせいにはしたくないが、視野が狭くなりゆとりがないと言うか、両手を大きく広げて迎え入れられない自分がいる。いろんな人の考えを尊重しながら自分とは違っていても理解することが人間の面白さを知ることだし、福祉の基本だと自認しているのに、最近は危機管理が先に立ち判断力や決断力が強く求められる一方、統率力と包容力のバランスがうまく取れない。「こうなければならない」と独断的になりがちで、両手の広がる範囲が小さくなってしまっている。メタ認知を鍛え直して、セルフモニタリングするために以前書いた文章を読み返してみた。

発揮できる力は本当に人それぞれで、ものづくりは苦手だけどケアが上手な人もいれば、その反対の人もいる。人によって作るもののレベルも変化する。「施設は人なり」だと思っている。

しょうぶ学園内の蕎麦屋は1.3ミリの細さを基準にしている。蕎麦を打つ人が変われば、どうしても微妙に太くなってしまい、今は1.5ミリになった。「1.3ミリでなければならない」と言えばいいものを、そうなってしまえば1.5ミリの蕎麦で勝負できないだろうか、と考えるようになった。職人の世界にも憧れはあるが、スーパー素人であるからには幅を許容できなければ事業として継続できないのだ。

企業は売上のために社員が一丸となって向かう。そういう理念が軸にある。今や福祉施設もコンサルタントの指導を受け、経営理念に沿って企業と同じアプローチで売上やサービスの向上を図っている。目標は常に前年より上でなければ評価されない。特別な理由がないのに質や量は下げてはならない。福祉においても、ビジネスの観点で言えばサービスの質は下がってはならないのだろう。けれども私は関わる人間が変わればサービスの低下もあり得ると思うようになった。「みんなちがってみんないい」と言うように、つまり不完全であるということが人間らしさの根源だとすれば変化こそテーマになるのだ。

だとすれば、蕎麦を打つ人が変わったら味は変わる。職員の個性を尊重したら当然そうなる。その人の能力のあり方が技になっていくので、クオリティの上がり下がりはあるだろう。が、それも川幅の変化のように捉えればいい。それを不安定という人もいるだろうが、どちらに転ぶかわからない変化を可能性として捉えたい。なぜなら個人の努力と能力と目標が一致しないなら、目標値を下げて精一杯の結果に満足する方が幸せになれるような気がするからだ。目標値を下げて良しとする経営者はそういないのだが、それぞれの能力が発揮されるのであれば、それが個性というものではあるのは確かだ。とはいえ、学園という組織を運営していく上では、ただ「人それぞれ」と言えば済むわけでもない。それだけに個性とはなんだろうかと改めて考えることは多い。

理想を含めた仕事のあり方や経営者として職員に望むことはありつつも、私の考えに入れようとすると、必ず反発が起こる。そして相手を変えようとしてしまう。長い時間をかけて理解したのは、およそ人が人を変えることなどできないし、職員が私の狭い考えに入ってくるように指揮をとれば賛同者は少なくなって、お互いにとって苦しくなるということだ。それならこちらの考えの枠の幅を拡張すればいい。全方位は無理だが、両手を180度まで広げておけばたいていの人について、共感できなくても理解できるようになる。つまり、自分の考えを広げるだけで「それもアリか」と理解者が瞬時に増えることになる。

(書籍「ありのままがあるところ」福森伸/晶文社 より抜粋)