
フクモリシン
そば屋 凡太 のこと
コロナ感染症が流行してすぐに、学園内にある「そば屋“凡太”」は休業した。以来5年間も再開できていない。私の父親でもあった先代の理事長(故福森操)は、蕎麦好きだった。休業のお知らせの張り紙を見るたびに、今から35年ほど前になるだろうか、その頃は、障害者の施設に店を出すなんて考えつくような状況ではなかったのだが、「学園の入り口辺りに蕎麦屋でもすれば繁盛するかもしれんな」と冗談のように言っていたことを思い出す。まさか、その20年後にそば屋を開くことになるとはだれも想像していなかっただろう。その頃は、しょうぶ学園にとって大きな変革期であった。デイサービスセンターを開設。そして入所寮の大改築を経て、地域に開かれた施設づくりの一環として、パン屋「ポンピ堂」に続きレストラン「otafuku」を開店した。改革が少しずつ進む中であったが、理事長であった父が脳梗塞で突然倒れ、後遺症などが残り業務に復帰することができなくなり、学園を退職し自宅療養することになった。
父の影響はないと思うが、自分の趣味のつもりで蕎麦打ちを始めていた。父の口癖だった「蕎麦屋でもすれば・・・」という言葉が脳裏に残っていた。父の言う蕎麦は、鹿児島でいう田舎蕎麦「そばきい」のこと。「そばきい」はもりそばの原型である「そば切り」の方言で、太くて短い蕎麦にネギとミカンの皮を刻んだものをのせてあまい汁をかけたものだ。しかし、私が目指した蕎麦は、蕎麦の発祥である江戸蕎麦と言われるもので、細くて長い麺に辛口のつゆで啜る食べ方の蕎麦。長野県八ヶ岳の蕎麦粉を仕入れ、返しは辛口の濃口醤油、出汁は鰹節と椎茸と昆布を基本とした。職人の手仕事に憧れて趣味で始めた蕎麦打ちだが、簡単にはつながらない。切れてしまうのだ。蕎麦打ちの手順は、水回し(粉と水を均一に混ぜ合わせる)、練り、延し、たたみ、切り、ゆでという手順の全てに醍醐味がある。工程の一つでもうまくいかないと満足した蕎麦は打てない。つまり、手抜きや修正ができないというものだ。私が木工家具を作る頃、漆塗りを少しばかり習った。工程の途中を間違えると全てが失敗につながるという点では蕎麦打ちも漆塗りも工程においては同じだ。ペンで直接手紙を書けば、間違えば紙やその時間が無駄になり、やり直しができないから文字数や誤字がないように集中しなければならない。現代は物事が簡単にできて、パソコンで文字も打つ。修正も簡単であることが求められて便利になった。料理もボタンひとつでできる。何もかもが失敗しないように道具が開発されてきた。修正ができないということは現代では不便で重宝されないが、「思考する」「ものをつくる」という人間の能力は退化していくという懸念を強く感じている。
話が横道に逸れてしまったので、蕎麦の話に戻そう。
蕎麦がつながらない理由はいくつもあった。まず水回しの水分量などの不良、延し時間がかかり過ぎての生地の乾燥、厚みの不均一、切りの不均一、ゆでの湯量とタイミングなど、考えれば考えるほど何が悪かったかもわからなくなる。どうせ自分の自家用だからという思いがあって、途中でダメだと思うと集中力が途切れて諦めてしまうことがしばしばあった。諦めずに最後の工程まで集中することを繰り返していくうちに、何が悪かったか解ってくる。はずかしい蕎麦打ちから、程よく恥ずかしい感じになって蕎麦がつながって細く切ることができると、舟箱に入れる時も蕎麦が切れないようにと優しく扱うようになるものだ。ちゃんと打てないながらも次第に調子に乗って、人に食べてもらいたいと、月日が経つにつれて「学園で蕎麦屋が開けるかも」と思い始めていた。
いくつもの蕎麦屋を食べ歩き、行き付けの蕎麦屋の店主にもいろいろなことを訊きながら、蕎麦の味は一芸なのに個性豊かであることに惹かれて、ついに、学園の入り口にあった鉄骨造りの小さい車庫を改装して蕎麦屋を開くことにした。
蕎麦を打つ職員は、もちろん福祉職として入職した支援員という業務からの異動によって配属した。師匠はまともに蕎麦打ちができない自分だったが、店を開くとなると、やはり本気になる。人に教えるという立場も緊張感と集中力を高めてくれた。毎日蕎麦を打ち、毎日自分で食べる。手が早くなり、感触で硬さや厚みが解るようになっていく。理屈ではわからなかったことが少しずつ解決していくような気がした。不思議なことに、人に教えるようになって自分の蕎麦も急につながるようになった。大事なことは、技術的なことはもちろんではあるが、「心を込めておいしくなるように」と思いながら集中すること。このことこそ大事な技術なんだと、手仕事の奥深さを少しばかり知らされた。
「教える相手がその仕事を苦手としていればいるほど、教える人はそのことを嘆くのではなく、教え甲斐があると考えるべし。なぜなら、それは自分の修行になるからである。教えられる人は、経験したことがないから、苦手なことであっても不得手なことだとは限らない。自分に謙虚になり正直に作業に取り組むこと。蕎麦打ちは、教える側も教えられる側も自分自身に没頭する貴重な時間になる。お互い、他者、標準という比較を捨て、おいしくて人が喜ぶ蕎麦を目指すべし」と。
蕎麦屋の店名が決まった。学園を開設する前、新聞記者だった私の父のペンネームは“ぼんくら”をもじって「凡太」だった。蕎麦屋の店名は、迷いなく「そば屋 凡太」と名付けた。このようにして、2011年に学園の入り口辺りに蕎麦屋ができた。
5年間休業していた「そば屋 凡太」の復活に向かっているのか、最近になってなぜか私の妻が蕎麦打ちを始めた。