TALK SPOT 95
「バランス」
フクモリシン
フクモリ シン
「バランス」
しょうぶ学園の標語は、2020年は“知行合一”そして、今年2021年は、“知足安分”いずれも、個人の生活や環境、衣食住、知行のすべてにおいて、“身の丈を知るバランス“のことを強調してきた。1960年代後半から70年代は、学生運動が始まり世間の不条理に対する自らの意思を貫き社会批判や権力に対する反発と個性が強かった。常識や規則から外れていること。ずれること。一般的でないこと。人と同じでないこと(アウトサイドにいること)に自分のステータスがあった。外れているのではなく、外しているのであって、ずれているのではなくずらしていることに主張する面白さや新鮮さがあった時代が懐かしくもある。無理をしてカッコつけても、ますますカッコ悪いのにも気付かずカッコをつけようとする。ある意味自分を持っていたから、ヤンキーも優等生もそれぞれはっきりしていてわかりやすかったし、また、それを裏切らなかった。
1980年代に入ると自己主張よりも協調が平和的な社会を作る道しるべとして求められた。強さを強調する差別的な思想が批判され「無理をする」という言葉には美意識は消え、共生、共存の思想がいい意味で福祉的思想の広がりをもたらしてきた。同時に、感情に振り回されず他の自由を犯さない「さりげなく」「なんとなく」というような、人と同じでもなく違うでもない普通で中間にいる快適さを追い求めて、個人も社会も無理をすることができなくなった。表面上は無理をせず反発しないように振る舞うから、優等生とみられていた人が重大な犯罪を犯すケースが増加している。なんでも多様性という言葉を信用しすぎて、反論せず、主張せず、間違った問題までも否定せず受け入れてしまっている感がある。判断力が弱まって中間的であろうとするから何が間違いかわからなくなっている。知識と現実のギャップによるストレスの影響は否定できない。今や、陽の創造(クリエイション)より陰の癒し(ヒーリング)の時代とも言えようか。
心身のバランスがとれているときは新しい発想が浮かびやすく体が動く。ある意味、躍動的で人や場所に元気があるように、世の中もバランスが取れていれば、対立する論争があるにしろ危機的状況は良き方向へ進化しやすい。コロナ禍の中では、無理をしてでも立ち向かっていかなければならない社会や個人の危機的な状況でありながら、心体がついていけない。この方向性の見えない混乱状態というバランスの悪さが暴露されている。世の中が全て正しいはずはないのだから(むしろ正しいことの方が少ないかも)無理をしてでもその壁を壊そうとしない限り、困惑した状況にしどろもどろしながら、相変わらず“有識者”の意見を踏まえながらの、同化的民主主義では人間の本来の力をますます失ってしまう。安穏どころではなく不安の時代に突入しているこの時代に、人工知能とか宇宙旅行ができるようになったテクノロジーの進化というアンバランスな世界観についていくのは難しく、個人の考えではどうすることもできない社会的パターナリズムに陥っているようだ。私自身、施設でのコロナ対策については自己判断ができない立場でもある。公的責任が常に優位にあるから誠実に対応するということは、行政の注意喚起の通知の言う通りにするしかない。自己判断ができないもどかしさと対峙している。何かに向かおうとしても先が見えないから感受性という力が弱って、新しい創造も生まれる環境が失われているような気がする。
はっきりしないさまを言う「曖昧」という言葉には多様性とリンクするところがある。また、1990年に流行語大賞に選ばれた「ファジィ」(柔軟性などと訳し柔らかい対応としていい意味で使われた)にも通じる。日本人のライフスタイルを反映して、ファッションや態度、思考に影響を与えた。適当な感じであったり、はっきりしないままのゆるい状況が当時はカッコよかった。流れに逆らわず冷静で知性的かもしれないが、「こうなければならない」と言う強い意志と信念を持たなければならない時には、多様性という言葉にどうしても貧弱さを感じてしまう。多様性は曖昧で平穏な時代にはマッチするが、ピンチの今こそ平均値や多数決ではなく、「強さ」のある根拠ある決断が期待される。「流れに逆らっちゃいかん。しかし、流れに流されてもいかん」(弘世現/元日本生命社長のことば)という教訓にあるように、状況を見極め変えるべきところは変え、変えないべきところは変えないという信念と勇気が必要だ。自分自身、様々な情報に振り回されず、バランス良く俯瞰することの難しさを身にしみて思うところである。
季刊誌101号『TALK SPOT』ページより掲載(季刊誌購読方法はこちらへ)
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