TALK SPOT 93
「知足安分」
フクモリシン
フクモリ シン
「知足安分」
京都市に「龍安寺」という禅寺がある。その寺の“つくばい”(つくばい:茶室の手水鉢。石の手水鉢を低く据えてあるので、手を洗う時つくばうからと言われる)には、「吾唯知足」(われ ただ たるを しる)の文字が刻まれている。孔子、釈迦(ブッダ)、老子の教えに由来していると言われているこの言葉である。あの水戸黄門の水戸光圀が寄贈したと言われているその“つくばい”の中心には、「吾唯知足」の全ての漢字に共通する「口」という文字の形をした水を溜める四角い穴が空いている。
「足るを知る者は富む」の思想は「欲」と対角の関連性があるようだ。幸せとは、自分の物理的な欲求を満足させること、不足したものを満たすこと、ではない。満足と幸せは違うというのである。金銭欲や名誉欲を満たす富ではなく、今の自分を肯定的に成してきたこと、成せずにきたことの全てを「足る」と捉え、不完全である自分や自分を取り巻く状況に感謝し「欲」を「足る」にすり替える思想とも読み取れる。
この「知足」の思想は、茶道の理念に「知足安分」(足ることを知って分を安んずる)という考えに繋がり、高望みをせず周りと比べることなく自分の境遇や生活に価値を見出することで、幸せを感じることができるということを説いている。安分とは、身分相応な程度に満足し,心安らかにしていることの意。他人に影響されずとも人に感謝し、不完全な自分自身のことを大事にすること。このことが「富」=「感謝」という教えである。私の父であった初代の理事長の冗談交じりの口癖は、「50点あれば満点だ」「背番号はなし」だったことを思い出す。謙虚に自分の価値を知ることの大事さが少しわかったような気がした。
民芸の精神と重なるところから考える現代は、世の中が豊かになればなるほどモノをたくさん欲しがり、次第に果てのない欲求や不満によって、欲しいものを手に入れるとすぐにまた次に欲しいものを求めたがる。(Amazon病?)そして、自分の力で創り出す力が衰え、人に頼るようになる。頼りすぎたり裏切られたり、うまくいかなくなると「足らない、足らない」と不満を持ち、人を妬み、人のせいにする。「足る」の対義語は「不足」。満たされないその心はますます貧しくなる。
身の丈という言葉がある。背の高さのことである。「身の丈に合う」とは、自分の体にあった服を着、食べ物を食べ、自分に似合う家に住む。正に衣食住が自分サイズであることこそは豊かな暮らしと言えそうだ。その人らしさは自分の内面から作られるのだから、無理をしても似合わないし、側から見たらかっこいいものではないのに自分ではなかなか気づかないものだ。昔、身長が少しでも高く見えるように身体測定の時、背伸びをしたことを思い出した。(笑)
「身の丈のデザインと身の丈の努力」。しょうぶ学園のものづくりにおいてもとても大切なことである。利用者のものづくりにはカモフラージュがない。自分の持っている技量や感覚がすべてオープンである。果たして自分はどうであろうか?上手に見せようとか仕上がりばかりを気にするあまり、いまどきの流行や売れ行きが先に気になり弱い作品になりがちだ。持てる力を信じ、正直に作品に向かえば美しいものが生まれることを知っているのに、それができない。「知足安分」は今の状態を全て受け入れ、そのままに満足するということではない。自分の能力を鍛えて身の丈を上げることは、その過程においては身の丈の努力なのである。つまり、足るを知って、自分自身の内面から足るを上げる努力の過程こそが、自己満足感としての「富」を得ることなのだろう。
季刊誌99号『TALK SPOT』ページより掲載(季刊誌購読方法はこちらへ)
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