TALK SPOT 91
無常な日常の中にいること
フクモリシン
フクモリ シン
無常な日常の中にいること
般若心経の「空即是色」においては、「無常なるものしかこの世には存在しない。常なるものは何もない。物事はすべて本来的には無常であり、実体もない。」と説いている。(太陽会の今年の標語:季刊しょうぶ95号掲載)この無常は、何も残らないのではなく、何かを手放せば何かが手に入る、滅びると同時に何かが新しく生まれるという意味へ繋がっている。しかしながら、通常私たちは日常の繰り返しの中で生きているから、植物が育っているのが目に見えないように、自分の毎日の変化には気がつきにくい。幸いにもと言うべきか、この日本では無常観も遠のき、毎日を人間は今日もまた同じだろうと考えて生活している傾向がある。そして明日もまた太陽は東から昇ってくるだろうか、などという疑問も持たずに生活している。そして、非日常的な物事に関心が強くなりエピソードやハプニングをどこかで求めているようなところがある。人間欲としての成長や発展という言葉の反対側にある日常の繰り返しに飽きて、あるいは何かに焦って、不確かな変化を求めているのだろうか。
しかしながら、誰しも年月が経ち生きてきた過去を振り返ると身体的にも精神的にも、「もう歳をとったな」「いつまで生きられるか」と独り言を言いながら、客観的に刻々と変化している自分にやっと気づかされるのである。病気の時は健康であることを認識し、悩みがある時はそれを解消したいと願い、特に、コロナウイルスのような切迫した不都合な非日常が起ると、一刻も早くそこから逃れたいと恐れ、社会や人間の弱さに疲弊し、日常の有難さを感じると同時に、本来の無常というものが認識されるのである。
社会危機の今だからこそ、先人の知恵、老子の教えに学ぶべきところがある。
「ものごとは、変化し、生まれては滅ぶ。そのあやうさをおそれる必要はない。それどころか、あなた自身が、可能性に満ちたものとしてあることを理解すれば、あなたは、わけのわからぬ不安から解放されるはずだ。生きるためには、あやうい『ものごと』や、あやうい『ことば』を確固たるものと思い込んではならない。生きるためには、ものごとの根源に立ち返り、 自らをそのあやうさに委ねればよい。
(確かなものは見えないはずなのに)確かなものにしがみつこうとするから、
確かなものに頼ろうとするから、あなたは不安になってしまう。
あなたには、そのあやうさを生きる力が、与えられているというのに。」
(引用=老子の教え:安富歩/ディスカヴァー・トゥエンティワン)
この無常観は、何にも頼らず何もしないのではなく、“確かなものはない”日常における全ての変化に対し肯定感を持ち、人間は“本来無一物”であることを思い起こし、今をどう生き抜いていくかという力の信頼性を示唆している。私たちは、いろんなことをすぐに調べられ、情報を手に入れられる。知恵を働かせ、より多くを望み、いろいろなことを達成できると思っていたところがある。しかし、万人の生命に関るコロナウイルス危機の現在、熟慮を重ね、最新の知識とテクノロジーを集めて政治家や経済学者が社会の安定を実現することを仮に目指したとしても、期待感より不安感の方が強いものを感じざるを得ない。争いごとが増えてはいけない。謙虚な知恵と行動によって今の不安と恐怖がこの世にとって意味あるものへと変化していくものだと信じたいものだ。
ここしょうぶ学園には、何日も、何ヶ月も、何年も繰り返す日常を大切にしている人たちがいる。私が入職して36年になるが、未だに会うたびに同じ言葉を交わしている人がいる。
「元気?・・・うん元気だよ。」
「どこから来たの?・・・近くから。」
「紙を頂戴ね?・・・わかった。」
「またねぇ・・・またねぇ」
「がんばってね。・・・ありがとう。」
彼女の知っている語彙は極々少ない。文字が読めない。意思表明は困難で、不自由なことが多いはずでありながらどうしてあんなにも豊かな表情を見せ、身体が衰えながらも自信ありげな顔をしているのか。世の中の状況が理解できないにしても、何十年も同じような無防備な日常の会話から幸福感を感じるのはなぜだろうか。
私たちは、退屈で平凡な日常よりも、新しさ・成長・発展・変革を求めていたようだが、日常の小さな変化に逆らわずに“確かなものはない”今に委ねながら、実は自然に歳をとり、ゆっくりと変化する日常こそが大切だと今わかった。
季刊誌97号『TALK SPOT』ページより掲載(季刊誌購読方法はこちらへ)
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