フクモリシン
自分の感覚を「世の中に合わせる」ことが難しいと常日頃から感じている人々がいる。感覚には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など、外界からの直接的な刺激を感じる働きと、計ることのできない無限にある心と頭から生まれる美醜やよしあし、物事のとらえ方、感じとる心の働きがある。後者においては、感受性(印象の感じ方)、洞察力(物事の本質や根底にある物を見抜く力)、価値観(何が大事かの物事の優先づけ)、相性(相手との関係性)、見解(物事に対する考え方)など、形にない無限にある個人の感覚が深く関連していて、本来感覚は自由であるはずなのに、やはり世の中の常識、基準というものの中で社会的に生きていくのであれば、「世の中に合わせる」ことを意識せざるを得ない、いや、逆に、世の中の仕組みに合わせることが難しいと思われる知的障害、精神障害という基準にある人の他、学習障害、あるいは自閉症と言われている人々のほか、障害と名のつかない内面に強い葛藤症状を有する人々の「生きづらさ」について深く考えたことはあるだろうか?
日本は同質的で思考や流行、表現が共通の常識となってしまい、異文化や少数派、異種の考えが受け入れられにくい。それゆえ協調性はあるが独創性に弱いところがある。確固とした自分があることよりも、むしろ集団的無意識のうちに行動し、無感覚になることが暗に求められているように思える。協調性が重んじられることで、自分の考えを緩めて他に同調、協力しがちになり、あまり主張を持たないことが集団に加わる上で必須となる。けれども独創性は自分の意思を表明し、意見や考えが違っていることをお互いが尊重しながら「調和」するところに生まれるだろう。自分の価値観や許容範囲を広げることによって、その場所は皆が自然でいられて争いがなくなり、しあわせに近づくはずだ。
障害者や職員も含めて、ここにはいろんな「普通」の人たちが集まっている。いろんな価値観の人間同士が意見を出しあい、協働する。自分と考えの違う人、つまりは自分の枠の外側にいた人の力を発揮させようとすると、自分では考えもしなかったし、それまでの自分の世界にはなかった新しいアイディアが生まれてくる。価値観の幅の持ち様によって何が正しいことなのかは変わってくる。「人には尊厳があり、それぞれに皆おもしろいのだ」と思えるそこにこそ、誰しもが普通に楽でいられる「皆楽」な場所がある。
障害のあるなしにかかわらず、人がそもそも自分らしく暮らすこととはどういうことなのか。生きる上で思う通りにいかないことがあるからこそ、それを解決していくために人が重なりあって関わっていこうとする。
村上春樹は以下のようなことを述べている。
「人はみんな病んでいる。というのが僕の基本的な世界観です。僕らはみんなその治癒を求めて生きているのです。あなたが誰かに治癒を求めようとすれば、あなたもまた誰かを治癒しなくてはなりません。僕らはその交換行為の中で“生きている“という実感を得るのです。多くの場合。」
社会は結局は人の集まりだから、お互いの多様性を認め、理解し、自由な発想と思考が尊重されなければならない。「こうならねばならぬ」という個人の価値観や概念、考えは自分自身には向けても他人へは向けてはならないと思う。どうしたら優しくなれるだろう。人をひとつの考えに染められはしないのははっきりしている。逆に、徹底して相手の考えを認め合える多様性のある精神的環境が人の能力や人間観を開花させていくのかもしれない。その能力の向かう先が「優しさ」であるならば、さらにいろんな変化を受け入れられる優しい学園になっていくのではないかと願っている。
しょうぶ学園50周年記念誌 両手を180度まで広げてみる より一部抜粋