2021.10.28 UP DATE
TALK SPOT 96

フクモリ シン

しょうぶの民藝 ~新しい文様の世界~

先日、半年ほど前に手に入れた利用者の描いた文様の磁器の皿で食事をした。久しぶりに質素でありながら力強いひまわりの文様に感嘆し民藝の精神を思い起こした。民藝の思想は、名もなき人たちによる使いやすいものへの探求であり、美しいものを作ろうという意識もなく、自分らしさを表現しようという個性も示さない。自分のできることへの執着と飾らない自然な発想で作り出した素朴なものこそ美しいというものであろう。

しょうぶ学園の人たちの作り出すものには共通した美しさがある。障がいを持つが故の「こだわり」と言ってしまえば、その美しさの意味にたどり着くことはできない。周りの人の識見や感性からそのものの価値を見出し、収集するだけでなく支援者(職員)の技術とアイディアの組み合わせから、使い勝手の良い新しい実用品として世に出て行くことによって、力のある仕事として認知されそして人としての尊厳を示すことにつながるのである。

それにしても、彼らの生み出す文様の発想はどこから来るのか。自分たちの頭の中に日常的にある形であるにも関わらず、不意をつかれたようなユニークな表現が混在している。絵画やイラストとも言い難いが落書きでもない。そもそも人に見せようとしていない感覚での創作だから作品というより、出来上がった形が過去のものとして、純に存在しているようである。彼らは美術教育はもちろん受けていないし、描くものの情報も乏しいがものの印象の掴み方が即興的で迷いがない。だから違う次元での美しさが文様として描かれるような感じである。

日本民藝の運動の父と呼ばれる柳宗悦(1889-1961)は次のように述べている。

「この世の人たちは、名を記す必要のない品物の値打ちを、もっと認めねばなりません。そうして自分の名を誇らないような気持ちで仕事をするような人たちのことを、もっと讃えねばなりません。そこには邪念が近づかないでしょう。ですから無心なものの深さに交じり得たのであります。この世の美しさは無名な工人たちに負うていることが、いかに大きいでありましょう。(中略)

考え直すと不思議なことでありますが、かかる不自由さがあるために、かえって現れて来る美しさがあるのであります。色々な束縛があるために、むしろ美しさが確実になってくる場合があるのであります。」(昭和18年執筆)

(「手仕事の日本」柳宗悦著/岩波文庫/1985年初版より抜粋)

学園の利用者は決して工人ではないが、彼らの作り手としての精神性は民藝の世界観と私の中では常につながってきた。このような美のあるものは特別な鑑賞物として保存するだけでなく、必要な実用品の美として生活の中で使われることは、正に文化的インクルージョンとしての新しい価値が生まれるのではないかと思う。彼らの生み出す文様と職員の手で仕上げられるクラフトは「しょうぶの民藝」と称し、新しい実用品として大切に育てていきたい

季刊誌102号『TALK SPOT』ページより掲載(季刊誌購読方法はこちらへ

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