2021.04.30 UP DATE
TALK SPOT 94

フクモリ シン

「おごり」と「誇り」

あれこれ考えることが多いだけでなかなか前に進まない日々。でも本当は同じように時間は過ぎてゆく。この文章を書くにも頭の中で整理がつかない。今思いついたことを書こうとしても新型コロナウイルスのことだけは書きたくないと思うが故に、ますますコロナのことが気になって思考がまとまらない。まさに混沌としたままである。

うまく書こうとしているから純粋なものが見えなくなるということは、学園の人から頭では学んでいるつもりだが、やはり体得できていない。彼らの字は学校では決して上手とは言えないのに、とても素直で愛おしい。彼らは他人に感化されない、影響を受けない。利己的で子供っぽい、あるいは未成熟ということに関連しているが、決して人に見せるためではなく、自分の衝動に直接的に触れている感じである。私たちは、前例や他者からの情報や知識によってこうあるべき論から離れにくい。学べば学ぶほど独自性を失っていくのである。他者と自分、社会と自分の関係を常に意識しながら本当の自分を失いがちになっていないだろうか。「うまく書く」という言葉は、第三者の誰かの評価かあるいは比較する何かを意識しているに他ならない。どうやら「プライド」という意識の存在が自我を揺さぶっているような気がする。

プライドには、「おごり」と「誇り」という意味がある。「おごり」は、自分の能力に対する過信、高ぶりを意味し、肩書や身分を根拠に自分を誇大表示して見せようとすることである。そして、他者からの承認や評価に依存して得られるものであり、他人と比較した自分の優秀さを地位として示そうとする考え方である。簡単に言うと、威張っている人。関連して「おごれる人も久しからず」は、平家物語の冒頭の有名な一節。分断と対立の今の時代に求められる言葉だ。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

(現代訳)

祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きを感じる。

沙羅双樹の花の色は、栄華を極めた者も必ず衰えるという道理を示している。

思い上がって高ぶっている人の栄華も長く続くものではなく、まるで覚めやすい春の夜の夢のようである。強い権力者も結局は滅亡してしまうのは、風の前の塵と同様である。

一方、「誇り」は、他者の評価とは全く関係ない自分の持つ能力に対する認知感覚である。「自分は自分である」という自分の作り出すモノ・コトに対して、カモフラージュせず自分自身の心に正直であることから生まれる自己満足感。つまり自分の考えや生き方に対する優劣感覚(保身保守)を除外した内に向かう生きがいである。人生や世の中の波にのまれずにタフに生きるためには、やはり傲慢であってはならない。不安なこのような時期だからこそ、流れに逆らわない謙虚な彼らを見習いながら、焦らず、おごらず、静かな誇りを持って過ごしたいものだ。自分への説教。

京都市に「龍安寺」という禅寺がある。その寺の“つくばい”(つくばい:茶室の手水鉢。石の手水鉢を低く据えてあるので、手を洗う時つくばうからと言われる)には、「吾唯知足」(われ ただ たるを しる)の文字が刻まれている。孔子、釈迦(ブッダ)、老子の教えに由来していると言われているこの言葉である。あの水戸黄門の水戸光圀が寄贈したと言われているその“つくばい”の中心には、「吾唯知足」の全ての漢字に共通する「口」という文字の形をした水を溜める四角い穴が空いている。

「足るを知る者は富む」の思想は「欲」と対角の関連性があるようだ。幸せとは、自分の物理的な欲求を満足させること、不足したものを満たすこと、ではない。満足と幸せは違うというのである。金銭欲や名誉欲を満たす富ではなく、今の自分を肯定的に成してきたこと、成せずにきたことの全てを「足る」と捉え、不完全である自分や自分を取り巻く状況に感謝し「欲」を「足る」にすり替える思想とも読み取れる。

この「知足」の思想は、茶道の理念に「知足安分」(足ることを知って分を安んずる)という考えに繋がり、高望みをせず周りと比べることなく自分の境遇や生活に価値を見出することで、幸せを感じることができるということを説いている。安分とは、身分相応な程度に満足し,心安らかにしていることの意。他人に影響されずとも人に感謝し、不完全な自分自身のことを大事にすること。このことが「富」=「感謝」という教えである。私の父であった初代の理事長の冗談交じりの口癖は、「50点あれば満点だ」「背番号はなし」だったことを思い出す。謙虚に自分の価値を知ることの大事さが少しわかったような気がした。

民芸の精神と重なるところから考える現代は、世の中が豊かになればなるほどモノをたくさん欲しがり、次第に果てのない欲求や不満によって、欲しいものを手に入れるとすぐにまた次に欲しいものを求めたがる。(Amazon病?)そして、自分の力で創り出す力が衰え、人に頼るようになる。頼りすぎたり裏切られたり、うまくいかなくなると「足らない、足らない」と不満を持ち、人を妬み、人のせいにする。「足る」の対義語は「不足」。満たされないその心はますます貧しくなる。

身の丈という言葉がある。背の高さのことである。「身の丈に合う」とは、自分の体にあった服を着、食べ物を食べ、自分に似合う家に住む。正に衣食住が自分サイズであることこそは豊かな暮らしと言えそうだ。その人らしさは自分の内面から作られるのだから、無理をしても似合わないし、側から見たらかっこいいものではないのに自分ではなかなか気づかないものだ。昔、身長が少しでも高く見えるように身体測定の時、背伸びをしたことを思い出した。(笑)

「身の丈のデザインと身の丈の努力」。しょうぶ学園のものづくりにおいてもとても大切なことである。利用者のものづくりにはカモフラージュがない。自分の持っている技量や感覚がすべてオープンである。果たして自分はどうであろうか?上手に見せようとか仕上がりばかりを気にするあまり、いまどきの流行や売れ行きが先に気になり弱い作品になりがちだ。持てる力を信じ、正直に作品に向かえば美しいものが生まれることを知っているのに、それができない。「知足安分」は今の状態を全て受け入れ、そのままに満足するということではない。自分の能力を鍛えて身の丈を上げることは、その過程においては身の丈の努力なのである。つまり、足るを知って、自分自身の内面から足るを上げる努力の過程こそが、自己満足感としての「富」を得ることなのだろう。

季刊誌100号『TALK SPOT』ページより掲載(季刊誌購読方法はこちらへ

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