2020.11.26 UP DATE
人(ヒト)30

馬頭忠治 (鹿児島国際大学経済学部教授)
福森 伸 (しょうぶ学園統括施設長)

鹿児島国際大学で37余年、経営学の教鞭を執られている馬頭忠治氏。

会ってすぐ、感じるままに語り合うことができたという福森の希望で

対談の場を設け、経営、組織、福祉のことを中心に伺いました。

左 福森伸、右 馬頭忠治氏

福森:馬頭さんは学園に見学に来てくださったり、偶然飲み屋で一緒になったり。そこでは少しお話しただけだったけれど、去年鹿児島で「全国知的障害福祉関係職員研究大会」が行われたときに再会して、意気投合して二人で話し込んだんですよね。それで改めてお話を伺いたいと思って対談をお願いしました。馬頭さんは経営学を専攻する大学教授であり、ホームレス支援などのNPO で活動もされている。経営学として大切にしていること、考え方、思想として捉えていることについてお聞きしたいです。

馬頭:いきなりですが、日本では戦後、「高度経済成長」に酔いしれましたよね。こうした共同主観とか共同体幻想があってみんなが夢を見れた。さらに勤労し、消費し、納税する「私」が求められ、自立するのが当り前となりました。ですが、経済成長が鈍化して、だんだん社会というのは自己責任でこそ成り立つと喧伝されるように変わりました。そして、その中で、そもそも社会は統合されるのではなく、多様性の場で、みんなそれぞれの生活が成り立つ仕組のほうがいいんではないかというふうにシフトしていきました。それぞれが他者とは違っていて、それぞれがかけがえのない存在なんだ、という認識ですね。この相互性をきちんと認め合っていこう、というような考え方に変わってきているのです。お互いが違うことを前提としながら、お互いが認め得るものこそが、新しい知となるのですが、その多くは隠れているのです。この知が、マイケル・ポランニーという人の言う「暗黙知」です。

福森:なるほど。

馬頭:僕らが知っているのは氷山の一角で、あとは埋もれている。埋もれている部分は無自覚なので、誰も知らない。でも人とぶつかり合うことで、だんだん隠れていたものが浮き彫りになっていく。浮き彫りになってきたものを共有すれば、それぞれ違っているけど、対立とか分裂という形にはならないんじゃないか、お互いが尊敬できる形にできるのではないかというのが僕らの今の議論です。

福森:よく分かります。目に見えている世界は小さいですよね。

馬頭:小さいですね。

福森:誰かと何かをするときに、元の目的を達成するだけじゃなくて、そのプロセスにおいて何かが少し「じわっ」と動いた、というのが人生なのかもしれないですね。

馬頭:一緒に動く。そして、気づく。判かっていく、そうした経験が大切ですよね。だから何が大切か、とか、どういう価値が大切か、と問い、規定してしまうとややこしくなる。「この価値が正しい」ということは簡単だけど、価値というのはとてもいい加減な概念で、なんとでも解釈できる。やはり人間関係のなかでどういう経験をしてきたのか、その関係のなかで知られていない、気づかないところに気づく経験をする。お互いに気づいていく。それが今までとは違ったものを生み出していく。このプロセスを欠いては、価値は価値ではないのです。

福森:見えない世界の話はやっぱりおもしろいですね。僕も今年のテーマは空即是色なんです。

馬頭:あらー(笑)。万物は流転し、そのときどきに形や色として放つだけであると理解していますが…。

*        *        *

福森:はたらくことについてもお伺いしたいです。

馬頭:僕が言うとバッシングされてしまうと思うんですけど…日本では特に「働くこと」が神聖化されていますよね。「人間の本質は働くことにある」と信じ、疑うことはありません。

福森:はい。それについてどう思われているのですか?

馬頭:実はその風潮、思想を壊したいと思っているんです。

福森:そうですか。「はたらく」って、とても意味が広いですよね。例えば手が動く、その手のはたらき。僕がその人に優しくしたときの心のはたらきと体のはたらき、労働としてのはたらき…たくさんありますよね。人間は働くために生まれてきたという人もいますが、経営学の先生である馬頭さんはどう考えているんだろうと思ったんです。

馬頭:まず「労働」という漢字はもともとなかったんですよね。人偏の「働く」は明治に「work」などの英語が入ってきたときにどう訳すかというところで出てきた新しい国字です。でもはたらくこと自体は昔からずっとあったわけですよね。福森さんがおっしゃったような、何かがなにかにはたらきかけるというような、もっと人間行為そのものを意味していました。その「はたらく」は、例えば百姓という言葉にも当てはまる。百のことができるから「百姓」。人間として生活をしていて、季節や状況によって必要なことをすべて整えていく、そういうものでした。そうした人間の行為がそのまま認められたらいいんですけど、近代は工場で働く、会社で働くということが、労働と言うものになったのです。本来「はたらく」とは「はためく」と同じ「はた」の動詞化で、だれもが自らを生かす根源的なはたらきを意味します。これを欠いては、労働も遊びも意味を失います。ところが近代以降、働く者がいて、労働手段があって、働きかける対象があって、さらには報酬を得て、というように常識化されたのです。そして、労働という概念によって、働ける・働けないという境界が生まれて、障がい者を作ってきたし、家事を無償労働にして、女性に押しつけて来たのです。そんな歴史的側面もあると思います。

福森:本当ですね。

馬頭:労働できない人は家にいてください、施設で過ごしてください、というふうになってきたのですから「労働」についてはもうちょっと慎重に考えたほうがいい、意外と曲者だよ、と思うんです。

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馬頭:以前、二度イタリアに行ってバザーリア法がめざした、精神病院を撤廃した後、どんな取り組みがなされているかを見てきたんです。向こうは国立病院だからなくせるんですよね。精神病患者が地域移行するために、地域ごとに地域精神保健センターというのがあって、地域のなかで生活できなかったときに短期入所できて、医師がいて薬も処方する。それに社会的共同組合という協同組合も作って、患者とその家族が地域で生活できる、社会復帰の仕組みをつくっていったのです。そのようにして1978年から40年以上かけて精神病院を解体したのです。彼らはそういうふうにして社会を変えていくんですよね。なぜなら彼らは社会は自分たちのものだと思っているからです。国民性と言ってもいいです。日本では国がやるものだという意識が強いので、どうしても社会のなかで生きることがうまくデザインできないし、そのために協力し、ボランティアや社会的な運動をすることなどもできない。そこが大きく違いますね。日本も地域移行は国の指針にはなっていますけど、同じようには進まない。例えば地域のなかにしょうぶ学園みたいな環境を整えていくことが、社会全体みんなで責任をもって作れるかっていうと難しい。特定の人に任されるだけです。

福森:ここも国のシステムのなかでやっているから、良いシステムだなと思うんですよ。

馬頭:なるほど。今福祉の学会でも現場でも、若い人が増えているので、少しずつではあっても変わっていくんでしょうね。

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福森:この間、京都の白川学園という施設の広報誌(『つくも』第638号  2020年7月26日)に掲載されていた岩木健さんという方の「古今奇感 二十  私もノーマライズして欲しい」という文章がとても印象的だったのです。(一部を朗読する)

馬頭:あぁ、福祉というのは、結局のところ希望を創れるかどうかということなんですかね。

福森:少しの希望が創れればそれでいいのかもしれませんね。

馬頭:それがいいよね、希望は人を優しくするということですよね。優しいとは、人を憂うると書きます。自分が背負わなければならない何かをだれかが代わりに背負ってくれる、そんな希望もあります。

福森:そこが「じわっ」と動いたということかも知れません。何かが少し動いたらいい、それが福祉かも知れない。さらにはケアする側も希望が持てたらいちばんいいですね。

馬頭:希望を創り出すこと。

福森:馬頭さんのおっしゃる「かけがえのない存在」というのはやはり僕にとってもキーワードなんです。かけがえがない存在である目の前の人をケアしているという思いが根底にあれば、マニュアルはもう要らないですよね、極端に言うと。就労のための支援とか、それは悪いことではないんだけれども、そこで留まってしまうとやっぱり色の世界にはまってしまって、空の世界が見えなくなる。そうすると彼らの不思議な行動を理解できなくなるだろうなと思っているんですね。

馬頭:その人を丸ごと受け容れられなくなりますね。丸ごと受け容れられなかったら相手を認めることにはならないですよね。実はまだまだ、人間は人間のことを分かってないんじゃないかな。だから魅力的でもあるんでしょうね。

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馬頭:水俣病に関する運動団体のなかに「本願の会」というところがあって、いろいろな運動をしてきたんです。その人たちは、悲劇から人を救う力が何かと言うと、それは祈りである。祈りしかない、と言うんですね。というのも、悲劇は人間存在の罪深さから生じるからです。だから「本願」の会としたのでしょう。そういう解決の仕方を大切にしたいと思いました。政治とか経済でバランスを取るばかりではなく、丸ごと人を受け容れて、祈る。現代社会にはもっとそういう取り組みがあってもいいんじゃないかな。昔の人はきっと、あらゆる大きな問題を祈りの中で解決しようとしたんじゃないかな。

福森:欧米の宗教って祈りますね。日本人は今はあまり祈らくなったかも知れないですね。

馬頭:やっぱりいいですよね。他者のことを祈ってその人らしく在ることを願う。これが、人間の接し方のひとつで、もしかしたらもっとも相手を尊敬する態度かもしれない。その人を利用するとか、価値がどれだけあるか値踏みするのではなく、ただ生まれてきたことを、生きてゆこうとすることを祈っていく。そういう思想はもともと、日本のどこかにあったんじゃないかなと思っています。それをもっと掘り起こさないといけないのでは。

福森:祈りとか宗教とかっていうのは人間社会ですごい力を持ちますよね。ピラミッドをつくってしまうような。

馬頭:スペインの世界遺産、サグラダ・ファミリアだってまだつくっている。1882年につくり始め、2026年に完成と言われています。そのぐらい時間をかけて後世に残すという思想と企てもすごいですよね。そういうものが全部、近代で失われてしまった。

福森:そのエナジーは見えないものですよね。完全な見えない世界にある。それを暗黙知から具現化するために祈っていくのかな。目を瞑って、黙って手を合わせて物事を解決させようとせず、という態度でいる。

馬頭:やっぱり究極的には祈るような優しさを伝えようとしているのかも知れないですね。

福森:先ほどもそのワードが出ましたが…「優しさ」はまさしく今のテーマなんです。難しすぎる主題なのもあり、あえて言わないようにしていたのですが(笑)繋がりましたね。おもしろかったです。ありがとうございました。

【馬頭氏の著書】

1 『脱マネジメント論-市民事業と公共性の発見』(2016年 晃洋書房刊)

2 『NPOと社会的企業の経営学―新たな公共デザインと社会創造 (現代社会を読む経営学 10)』(共著。2009年ミネルヴァ書房刊)

3 『アソシエーションとマネジメント ─経営学再考─』(2013年 ラグーナ出版刊)

4 『貨幣の生態学―単一通貨制度の幻想を超えて』(2001年 北斗出版刊)

季刊誌98号『人』ページより掲載(季刊誌購読方法はこちらへ

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馬頭忠治(ばとう ただはる)

鹿児島国際大学経済学部教授。専門は経営学総論、経営組織論。
1952年大阪生まれ。立命館大学院卒業後、1983年より鹿児島経済大学(現鹿児島国際大学)。NPO 法人かごしまホームレス生活者支え合う会理事、NPO 法人フードバンクかごしま特別相談員、NPO法人やどかりサポート鹿児島利用決定委員。フレンズFM「イブニングレディオ」パーソナリティ。